うるさいほどダ・ビンチ・コード@こりゃやっぱアメリカ的?ハリウッド的

グランパスについては特にモノ申す事はありません。しかも今節も忙しく知多半島まで行かなければならず、試合自体は見ていないので。

ということで、少しダ・ヴィンチ・コードについて思うことを述べてみたいと思います。

よく☆で評価を表しますよね。それで表すなら私的には★★☆☆☆という2つくらいな感じでしょうかね。

ちょっとダ・ヴィンチ・コードについて書かれてあるブログなども読んだのですが、

カソリック信者にしたら衝撃を覚えるかもですが、キリスト教に疎い人にしたらそれほどでもなく・・」

と書かれている方が結構いらっしゃったのですが

マグダラのマリアイエス・キリストの妻(肉体関係があった)』

というのは、事実かどうかの100%の根拠があるかは示されてはいませんが、よく言われていることなので特に衝撃を覚えません。もちろんローマ・カトリック関係者は「表面的には」否定するでしょうけど、彼等が一番分かっていることでないかと思います。そもそもイエス様をお生みになられたマリア様の「処女懐妊」だって生物学的に考えたらおかしな事であり、疑われてもしかるべきでしょう。

『ただ、それを言い出したら2000年に渡って培われてきたキリスト教が崩壊してしまうから』

もっとはっきりと言うなら、本当にイエス様が真の神であり、救世主であるのなら、色々な説が生じる事もなかった訳だし異端なんてものもありえないでしょう。三位一体なのか違うのかを審議する事もなかった訳ですよ。だって絶対なんだから。

『当時、キリスト教なんてものは、今で言う新興宗教だったのだから、だからイエス様は十字架にかけられたのだから』

いや、ローマカトリックを擁護したい訳でも貶したい訳でもじなくて、「何も衝撃などない」と。イエス様は大酒のみでよく笑ったなんて説もありますしね。そもそも、12月25日が本当のイエス様の誕生日ではない、実は8月だったという事もほぼ事実として分かっている事ですし、これに関しては、12月25日がイエス様の本当の誕生日ではないにしても、この日を私たちが覚えてこの日を大切な日と定めることによって私たちはイエス様に対して思う日とすることができると、要は実際生まれた誕生日が大切ではなく、本当に大切なのはイエス様を思う日がめくるめく12月25日になったという事、だと、まあこれは、とあるプロテスタントの牧師さんに教えて頂いた言葉なのですが、それをふまえれば、別にマグダラのマリアとイエス様がどういう関係だったとか、イエス様は実はとても人間的だったとか、十字架にかけられたにもかかわらず、3日後復活したその人は別人だったとか、そんなことはどうでも良い下世話な事であるかと。それよりも、もっと大切な言葉が聖書にはしたためられ、(それがイエス様自身の言葉というより彼の弟子による業績であったにしても)それが現在も受け継がれ、今も新約聖書はベストセラーとして残っている事が私には凄い事であると思うのですね。

ついでに言うならダ・ヴィンチが素晴らしい画家であると言うのはもちろんそう、そうです。私も決して嫌いな画家ではないのですが、エル・グレコの絵と比べてみてほしい。どちらの絵に惹かれるかを。


そんなんでこの本、つまりダ・ヴィンチ・コードはそんなキリスト教を背景的にしている割は薄っぺらいし、単にミステリーとして読むにしても、後登場人物の人格がコロコロ変わって脈絡無いし。つまり「こいつが犯人」とみせかけておいて、その時は悪く書かれているにもかかわらず、いつしか良い人になっているし。(例えばクリスティの小説ではそんなことはない。嫌なヤツは犯罪者で無くてもずっと嫌なヤツで、それぞれの人格や性格が変わったりしない)という訳で本としたらイマイチでしたな。(笑)